今や世界的ビッグクラブとなった我らがレアル・マドリード。
サッカーをしていない人でも名前を聞いたことがあるほどのチームで、日本でもかなりの人気を誇っている。
特に、あのベッカムやジダンなどが在籍していた時代の銀河系軍団という呼称は日本でもかなり浸透したのではないだろうか。
そんな我らがレアル・マドリードだが、クラブの歴史について知っている人は中々いないと思う。
あなたが生粋のマドリディスタと言い張るのではあれば、是非とも歴史を少しでも語れるようになっておくべきだ。
ってことで今回は我らがレアル・マドリードの歴史と功績について皆さんに知っていただこうと思う。
レアル・マドリードの歴史
今でこそ誰もが知っているサッカークラブに成長したレアル・マドリード。
そんなレアル・マドリードの歴史は100年以上も前まで遡る。
どのようにして今のようなビッグクラブになったのか。
現在のチームになるまでにどのような出来事があったのか。
それでは早速、我らがエル・ブランコの歴史について書いていくことにする。
創成期
それではまずクラブの創成期についてだが、1895年にまで遡る。
サッカーというスポーツの発祥地はご存知の通りイングランド。
そんなイングランドから新スポーツとしてスペインに広がった訳だが、20世紀初頭には最初のサッカークラブが誕生した。
イギリスの名門ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の卒業生がマドリードに「フットボールスカイ」というクラブを設立したのがそれだ。
ネーミングセンスに関しては触れないでおく。
その「フットボールスカイ」は1900年に解散分裂し、理由は分からないが2つのクラブに分かれることになった。
それがニューフットボールクラブとエスパニョール・デ・マドリード。
そして後者のエスパニョール・デ・マドリードが現在のレアル・マドリードに直接関係してくる。
エスパニョール・デ・マドリードはフリアン・パラシオス会長をリーダーとして集まるただのサッカー愛好家の団体だったが、トップチームのメンバーを選考するための総会を実施するなど精力的に活動していた。
そして、そのエスパニョール・デ・マドリードをフアン・パドロス兄弟が継ぐことになった。
サッカーがスペイン国内でも人気のスポーツになっていたということで、常に何かの話題の中心であり愛好者の数もどんどん集まったんだとか。
そして、1902年にフアン・パドロス会長がサッカークラブ組織として公式に設立した。
それがマドリード・フットボールクラブという現在のレアル・マドリードの母体となった。
当時のマドリード・フットボールクラブの役員だったアルベルト・アギレラという人が「アルフォンソ13世に敬意を表す大会を開催しようンゴ!」とマドリード市長に提案した。
この大会には5つのクラブが参加して競馬場にてスペインカップとして開催され、マドリード・フットボールクラブは最初の6大会で4回優勝したという。
そしてこの頃から「勝利」がマドリードにとって当たり前、「勝利こそがアイデンティティ」になったのだ。
最初の数試合では度々パドロス兄弟の部屋にてサッカー談義が行われていたというが、そんな中でスペインに居住を移していたイングランド人アーサー・ジョンソンという者がいた。
「サッカーをよりよく発展させるためのスローガン」という言葉を発するなどその思いやサッカーへの情熱を語り、のちにアーサー・ジョンソンはマドリードの初代監督になった。
スペインでのサッカー人気が高まり、カルロス・パドロスは新たに国際試合の開催を思いつく。
費用を全て負担し、ガリア・スポルト・ド・パリを招待しスペイン対フランスの試合を開催した。(結果は引き分け)
1909年にはスペインサッカー協会が設立された。
というのもスペイン国内での大会組織で色々と問題が生じてしまったという。
クラブ間の信頼関係が不安定になってしまったということで協会設立のための総会を行い満場一致でサッカー協会を設立した。
しかし、立ち上げ当初の頃の運営は非常に難しいものになったという。
まぁ何事も最初はうまくいくなんてことはないだろうが…
1911~1920
スペインサッカー協会が設立され、クラブ間のゴタゴタがなくなると思われたがなかなかそういう訳にもいかなかった。
クラブは利益を追求するし、協会を支持していながら似たような他の組織に加入しているものもいたという。
以前のレアル・マドリードも同じだったという。
しかし、「サッカー」という競技においてそれらの問題は全く関係なくなるほど期待感があった。
チームのファンたちは応援しているチームの試合を見にいくために、競技場へ足を運ぶ。
そしてレアル・マドリードも色々な問題でごたついてはいたが、ファンが増えるにつれてフィールドを移転させる必要があることが明白だった。
たくさんの観客に試合を見てもらい収入を確保するということに舵を切ったのだ。
マドリードはオドネル・スタジアムへフィールドを移転し、プロフェッショナル化を進めていった。
多くの観客から得ることのできる収益は選手を獲得するための予算となったのだ。
クラブ収入から良い選手を獲得する流れは今となっては当然のことかも知れないが、当時のサッカー事情においては画期的なことだったのだろう。
オドネル・スタジアムは5000人ほどの観客収容人数を誇り、マドリードで一番のスタジアムだった。
そんな中当時の国王アルフォンソ13世がサッカー協会とクラブ連盟のいざこざを見かねて和解してもらおうと仲介に入ることになった。
クラブ連盟には「融合しなよンゴ」と依頼したという。
そんなこともあってスペインサッカー界は不安定から安定に変わったんだそうだ。
国王が出てきてまでって事は相当揉めてたんだろう。
いざこざもなくなり、スペインサッカー界が軌道に乗り始めた頃、マドリードに伝説的な選手が誕生した。
それがサンティアゴ・ベルナベウだ。
FWとして素晴らしい得点能力を持っていたサンティアゴはキャプテン、そしてチームの顔としてチームを引っ張った。
今サンティアゴ・ベルナベウって選手がいたことを知った人も多いのでは?
1915-1916シーズンはスペインカップで準優勝におわってしまい、この結果を受けてアドルフォ・メレンデス会長を含めて理事会メンバー全員が辞意を表明。
ペドロ・ハラヘスが会長を務めることになった。
そして翌シーズンの1916-1917シーズンのスペインカップではアレナス・グエチョと決勝を戦い見事優勝。
アーサージョンソン監督率いるマドリードが9年ぶりにタイトルを獲得した瞬間だった。
そして1920年にはアルフォンソ13世から「レアル」の称号をもらい、レアル・マドリードというチーム名に変わった。
1921~1930
この時期になるとスペイン国内はサッカーがさらなる人気スポーツとなり、人口のほとんどがサッカーをプレーするかもしくは観戦するまでになっていた。
1920年に行われたアントウェルペンオリンピックではスペイン代表は銀メダルを獲得。
このスペイン代表の活躍によりサッカー人気はさらにさらに人気になり、レアル・マドリードは「レアル」という称号を手にしたことで再びファンの増加に伴い新しいフィールドを探す必要があった。
オドネル・スタジアムに入りきらなくなった観客動員の問題を解決するべく、シウダード・リネアル競輪場に移転すると、その後には新スタジアムとしてチャマルティンが建設された。
チャマルティンの観客収容人数は1万5000人となり、オドネル・スタジアムから1万人も多く収容できた。
そんな中1928年に新しい大会形式としてスペイン・リーガが創設され3つのディビジョンで行われることになった。
1部には当時のスペイン王者6チームと準優勝チーム3つ、そして昇格プレーオフを勝ち上がったチームで構成。
このリーガをきっかけに国内の色々なところから集まる壮大なスペインリーグが開幕したのだ。
チャマルティンで行われたマドリードの初戦はエウロパ・バルセロナとの対戦で、レアル・マドリードは見事5-0で勝利を収めた。
つまり、リーガで1番最初に首位に立ったチームがレアル・マドリードだ。
1930年には、当時最高のGKとされていたリカルド・サモラをエスパニョールから獲得。
移籍金は15万ペセタ(現在でいう900ユーロ)だった。
現在の市場価値と比べてしまうとどうしても激安に感じてしまうが、当時では高額の移籍金。
サッカー選手がお金で大きく動いた瞬間だった。
1931~1940
1931年はアルフォンソ13世が国外に逃亡したことでレアル・マドリードから「レアル」の称号が外されることになりクラブ名は「マドリードFC」に変更。
それでもGKリカルド・サモラを獲得して間も無くして当時最高のDFと言われていたジャシント・キンコセスやシリアコ・エラスティ、FWとしてマヌエル・オリバレス、ルイス・レゲイロも獲得。
1931-1932シーズンはリーガで無敗優勝を達成し、初優勝の栄冠を手に入れた。
この優勝でマドリードFCは確実に味を占めたと思う。
お金さえあれば最高の選手を手に入れる事ができて尚且つ成功への近道だと。
1932年にはスペイン代表でもありバルセロナでも活躍したジョゼップ・サミティエールを獲得(バルセロナのクラブ通算ゴール数歴代3位)。
今でいう禁断の移籍をさせてまでマドリードは有能な選手を獲得した。
そんな勝利が当たり前になり、スペインサッカーの覇権を握り始めたマドリードFCには、クラブだけでなく選手にファンがつくようにもなった。
GKのリカルド・サモラなんかは当時のクリスティアーノ・ロナウドのような存在だったらしい。
いつの時代にもそういうアイコン的な存在の選手はいるもんだと思わせられる。
1936年に行われたスペインカップのバルセロナ戦で見せた活躍はスペインサッカー史でも語り継がれていて、エスコラのシュートを止めた不可能なセービングは伝説となっている。
キャプテン翼の若林並みのキャッチだったんだろう。
キャプ翼見た事ないけど。
そんなサモラが大活躍したスペインカップから約1ヶ月後、スペインで内戦が勃発してしまう。
4年間でリーガ2回とカップ戦2回の優勝を果たしていたマドリードFCだったが、内戦の影響を受けて多くの選手がキャリアを継続することを諦めた。
「やってられないンゴ!」ってことで国外へ逃亡する選手もいたという。
1939年に内戦は終戦を迎えたが、1936年から中断していたリーガを再開するに当たって様々な問題に直面した。
ペドロ・パラヘスにより総会が開かれるとアドルフォ・メレンデスが会長に就任し、選手数が激減した問題やスタジアムが内戦の影響で破壊された問題など、ゼロからのスタートとして再建に取り組んだ。
「内戦」というワードが出てくるだけでかなり前のことだというのが感じられるが、それくらい前からレアル・マドリードの母体が存在していたことに歴史と誇りを感じてしまう。
1941~1950
レアル・マドリードはこれまでクラブの躍進に貢献してきた選手たちを無くした状態でチームを作っていく必要があった。
1943年のスペインカップ準決勝ではバルセロナと対戦し、第1戦は0-3でバルセロナが勝利するも第2戦では11-1でレアル・マドリードが大逆転勝利した。
この時以来、現在のバルセロナとのライバル関係が芽生え始めたと言われている。
そして、レアル・マドリードにとって1番大事なイベントがやってくる。
それが1943年サンティアゴ・ベルナベウ会長の誕生だ。
内戦の影響で廃墟になってしまったチャマルティンに代わってヌエボ・エスタディオ・チャマルティンを立て直すことに決めた。
なおこのスタジアムは1947年12月14日に完成しラ・リーガの初めての試合ではアスレティック・ビルバオ5-0で下して勝利を収めている。
サンティアゴ・ベルナベウは全てのクラブと機関と友好的な関係を築くという考え方を持っており、「レアル・マドリード・クラブ・デ・フットボールへの絶え間ない献身と勤労」として1948年に名誉会長の地位についた。
たった5年で名誉会長とまでになるのだから、この5年間がレアル・マドリードにとってどれだけ大事な期間だったかが分かるだろう。
これはトリビアだが、1950年よりレアル・マドリード通信たるものが発行されるようになった。
これも新スタジアムのオープンだったり選手のインタビューなどファンが知りたいことを伝えるというニーズが増えたためで、9月1日に発行された第1号ではサンティアゴ・ベルナベウ会長の直筆メッセージが表紙になっていたんだとか。
こういうところもベルナベウ会長の貢献が見て取れる。
日本でいう川淵さんのような存在なのだろうか。
ってことはベルナベウはキャプテンだな。
1951~1960
レアル・マドリードにとってこの10年間は黄金期として語り継がれている時代というのをご存知だろうか。
我々のイメージからすると常に黄金期、なんなら2020-2021シーズンの今が最悪のシーズンなのではないかって思うが、この1951~1960は素晴らしい時代を過ごしている。
所謂、この時代が今のレアル・マドリードの地位を確立したものにしたと言っても過言ではない。
その代表的な例が、1953年アルフレッド・デ・ステファノの獲得だ。
当時3強と言われていたバルセロナ、アトレティコ・マドリード、アスレティック・ビルバオという勢力図を大きく変えたのがまさにデ・ステファノの存在だった。
特に1956年に開催された初めてのUEFAチャンピオンズカップでは初代王者に輝いたのもレアル・マドリードの輝かしい功績の1つだ。
デ・ステファノがレアル・マドリードの在籍してる間はヨーロッパチャンピオンに5回、リーガチャンピオンに4回、インターコンチネンタルカップ1回の優勝を成し遂げた。
1954-1955シーズンのリーガでの優勝はアトレティコ・マドリードのホームスタジアム、メトロポリターノで1節を残して優勝し、衝撃の勝ち点46での優勝。
これは当時はとてつもない記録で1950年台半ばまで破られることはなかったという。
サンティアゴ・ベルナベウ会長が就任して以来、世界的に見ても成功したクラブの代名詞となった。
その功績を讃えて、ヌエボ・チャマルティンというスタジアム名をサンティアゴ・ベルナベウにした。
ラ・リーガで最多の34回の優勝を誇る「白い巨人」こと我らがレアル・マドリード。 勝利のアイデンティティは創設された当初から現在までしっかりと引き継がれている。 そんな勝利を積み重ねるエル・ブランコを見てきたのが我らがレアル・マド[…]
そう、今絶賛改修工事中でレアル・マドリードのホームスタジアムとして有名なあのサンティアゴ・ベルナベウである。
レアル・マドリードの歴史にとってサンティアゴ・ベルナベウ会長の仕事ぶりは大きなイベントの1つということがわかってもらえたと思う。
1958年には、「カニョンシート・プム(小さな大砲)」と呼ばれていたフェレンツ・プスカシュを獲得。
世界屈指の左ウイングハーフとして力強いシュートを持ち味としていたプスカシュはヨーロッパチャンピオンの5連覇にも貢献し、デ・ステファノ、パコ・ヘント、レイモン・コパなどのレジェンドプレイヤーと共にレアル・マドリード黄金期の一人となった。
現在でもプスカシュ賞というFIFA主催の大会で最も優れたゴールを決めた選手に与えられる賞があるが、当時のプスカシュの左足のシュートは強烈で観客に猛烈なインパクトを残していた。
1961~1970
黄金期と言われた10年を終えると、レアル・マドリードは「優勝」が当たり前と言われるようなクラブに成長していた。
今のレアル・マドリードの印象はこの時期からすでについていた。
1961-1962シーズンはリーガと国王杯の2冠を達成すると、UEFAチャンピオンズカップでも準優勝。
そんな1950年代の勢いそのままに駆け抜けた1961年からの10年だが、ベルナベウ会長は「チームの若返り」が必要だと考えていた。
これまで数々の功績に貢献してきた選手たちはもう若くはなく、常にトップに君臨し続けるには若い力が必要だった。
そこで目をつけたのが、1962年に昇格したデポルティボ・ラ・コルーニャの中心選手であり原動力だったアマンシオ・アマロだ。
22歳でレアル・マドリードに入団したアマロはすぐさま右サイドでレギュラーに定着し「エル・ブルーホ(魔術師)」と呼ばれファンからも親しまれた。
そして、それと共にチームを支えてきた功労者とも別れの時もやってくる。
1964年の公式戦出場を最後にレアル・マドリードを11シーズン牽引してきたアルフレッド・デ・ステファノが引退した。
実質的には1967年に引退記念試合を持って正式に引退だが、公式戦出場は1964年が最後だった。
マドリードで挙げたゴールは308ゴール。
スタジアムはスタンディングオベーションでデ・ステファノを見送り、レアル・マドリードの伝説「サエタ・ルビア(金髪の矢)」と別れを告げた。
1965年にはレアル・マドリードはリーガ5連覇を達成。
当時のメンバーはラモン・グロッソ、ピッリ、マヌエル・サンチス、ペドロ・デ・フェリペの4人がチームの中心として活躍し、1966年に6度目のチャンピオンズカップを獲得した際はビートルズを真似して写真撮影をしていたことから「イェーイェーマドリード」とも呼ばれた。
今でいうカスティージャから昇格したグロッソに関しては、デ・ステファノから引退試合でキャプテンマークを渡されるなど信頼されている存在でもあった。
1971-1980
レアル・マドリードで14シーズンもの間で指揮をとったミゲル・ムニョス監督。
「イェーイェーマドリード」の父とも言われたムニョス監督は、数々の功績とトロフィーを置き土産に、レアル・マドリードに「勝者のメンタリティー」をしっかりと植え付けていた。
そして、1973-1974シーズンにルイス・モローニーにバトンを渡した。
そのモローニー監督もそのバトンと勝利のメンタリティをしっかりと受け継ぐことに成功。
1974年に行われた国王杯では、ライバルの関係となって約30年経ったバルセロナを相手に4-0で圧倒的な勝利を収めた。
1974-1975シーズンにはまた新たな監督としてミリャン・ミリャニッチが就任。
1974年にはドイツ代表のパウル・ブライトナーを獲得すると1974-1975シーズンはリーガと国王杯の2冠を達成。
1975-1976シーズンにはリーガ2連覇を成し遂げた。
翌年にはさらにスペイン代表のフアニートを獲得したが、1976-1977シーズンはリーガも国王杯も優勝することができず無冠で終了してしまった。
無冠に終わってしまったら監督が責任を取らされるのは今も昔も変わらない。
ミリャニッチを解任しルイス・モローニーを呼び戻した。
無観に終わったシーズンを終えてチーム力の低下を危惧したベルナベウ会長と事務局長のアグスティン・ドミンゲスはビッグネーム獲得に動く。
ボルシア・メンヘングラッドバッハの会長に招待されて観戦したディナモ・キエフとの観察しベルナベウは「10番もええけど、獲らなあかんのは8番やな」と発言。
8番というのは背番号というより守備的ミッドフィルダーのことだ。
ボルシアで才能の片鱗を見せ頭角を表していたウリ・シュテーリケを試合後数時間で契約にこぎつけ、ホテルのメモ帳で契約を交わしレアル加入を決めた。
結果1977-1978シーズンはリーガを優勝しベルナベウの手腕が発揮されたシーズンとなった。
ベルナベウって本当に敏腕だったんだな。
ところがレアル・マドリードにとって衝撃の日がやってくる。
1978年6月2日、レアル・マドリードを世界的な名クラブに引き上げたサンティアゴ・ベルナベウが死亡したのだ。
レアル・マドリードは偉大な会長の死に悲しみに暮れたが、1979年8月31日にサンティアゴ・ベルナベウ杯を開催し、世間にベルナベウ会長の偉大さを記憶に残した。
その大会にはアヤックスやミラン、バイエルン・ミュンヘンなどヨーロッパ中の強豪が集まった。
1980年には国王杯史上で初めてレアル・マドリード対レアル・マドリードのカスティージャの決勝が行われた。
どちらもレアル・マドリードということもあり、ファンはお祭り状態。
結果はトップチームが6-1で勝利したが、どっちが勝ってもトロフィーはレアル・マドリードに残るということでファンはどっちが勝っても良かっただろう。
このシーズンはトップチームはリーガも優勝し二冠を達成している。
ちなみに空いていた会長職にはルイス・デ・カルロスが就任。
1981~1990
この10年間はカンテラ出身の選手たちが躍動する期間となった。
1983年に2部で優勝したカスティージャから将来有望な若手選手5人を徐々に昇格させた。
それがマヌエル・サンチス、マルティン・バスケス、ミゲル・パルデサ、ミチェル、そしてエミリオ・ブトラゲーニョだ。
彼らは徐々にトップチームにフィットしていくと、1985年にはリーガ5連覇とシーズン最多得点となる107点を叩き出した。
もちろん、ベテラン勢の活躍も忘れてはならない。
その中でもメキシコ人FWのウーゴ・サンチェスは今でも語り継がれるほど得点を量産し貢献。
ベテラン勢のフアニート、バルダーノ、サンティジャーナと共に「キンタ・デル・ブイトレ」(当時のチームの総称)として完璧にフィットした。
在籍7年間で251得点を記録しその内4回はリーガ得点王となるなど、アイコンとなっていたゴール後のバク転パフォーマンスはファンの脳裏に焼き付いていることだろう。
1986-1987シーズンはリーガの方式が変わり、全チームが総当たりで2回試合をするというシステムから決勝プレーオフが導入されたこともありリーガ史上最も長いシーズンとなった。
それでもレアル・マドリードはウーゴ・サンチェスの得点力、ブトラゲーニョのテクニックや創造的なプレー、そして固い守備でシーズンを戦い抜き、このシーズンも最終節を戦わずして優勝。
圧倒的な力でシーズンも戦い、ウーゴ・サンチェスも34得点で得点王。
この年の最優秀選手賞を獲得した。
ちなみにこの10年間ではヨーロッパチャンピオンズカップを獲得することは叶わなかったが、5回のリーガ優勝やその他カップ戦でも優勝をすることができたことで欧州におけるレアルの存在感は変わりなく、どちらかといえば権威が上がったようなものだった。
フランスのフットボール誌にはこの10年間で最高のクラブと称され、30年間の素晴らしい功績を讃えアルフレッド・ディ・ステファノはスーパーバロンドールを獲得した。
ディ・ステファノって本当にすごい選手だったんだなぁと感じる。
1991-2000
この10年間からは徐々にプレーを実際に見たことがある選手たちが出てくる。
1990年代はレドンド、ラウドルップ、ロベルト・カルロス、セードルフ、ミヤトビッチ、シュケルなどなど今や伝説となっている選手たちを次々と獲得。
レアルでは伝説となっているラウール・ゴンザレスが17歳でカスティージャから昇格したのも1994年だ。
マルティン・バスケスに代わって出場したラウールは17歳とは思えない見事なプレーを見せ、今レアルファンならみんなが知っているあの姿へと伝説の1ページをスタートさせた。
そのシーズンではかつてマドリードでプレーしていたバルダーノがテネリフェでの監督経験を経てレアル・マドリードにカムバックした年でもある。
レドンドやラウドルップを擁したチームで1994-1995リーガ優勝を果たしたが、中でもヨハン・クライフが率いるバルセロナとのクラシコはTV中継で1000万人以上が見守る注目の試合だった。
結果は5-0でサンティアゴ・ベルナベウで大勝したレアル・マドリードはこのまま無双状態に入るかと思われた。
1995年にはロレンソ・サンソが会長に就任。
するとカスティージャからビクトル・サンチェスやグティなどの選手を昇格させたが1995-1996シーズンは成績が振るわなかった。
それを見てフロントはすぐ動く。
欧州サッカー界でその手腕が評価されているファビオ・カペッロを招聘すると、セードルフやロベカルやミヤトビッチなどの新選手とイエロやラウールやレドンドなどを融合させることに成功。
見事リーガチャンピオンに返り咲いた。
1996-1997シーズンも史上最多の勝ち点92を獲得しリーガ優勝を果たしたが、イタリア人監督カペッロの守備的な戦術が批判の的に。
結果、カペッロは解任させられた。
優勝しているのに解任させられるあたり、スペイン人のサッカーに対する批判の威力は相当なものなんだと思う。
後を引き継いだのはユップ・ハインケス監督。
ハインケスはレアル・マドリードを32年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導きリーガ優勝にも導いたが解任。
その後のフース・ヒディンク監督も今でいうトヨタカップを制するなどタイトル獲得には貢献したが、リーガの成績が振るわずシーズン途中で解任させられた。
レアル・マドリードの監督を務めるということがいかに大変なのかというのをつくづく痛感させられる。
1999年にはこれまた成績不振でジョン・トシャックが解任させられると、当時カスティージャを率いていたビセンテ・デル・ボスケがトップチームの監督に就任する。
1999年にはイバン・エルゲラ、ミチェル・サルガド、ニコラ・アネルカ、スティーブ・マクマナマンなど銀河系軍団といずれ呼ばれるチームの土台を作った選手たちが加入していて、クラブのレジェンドにもなっているイケル・カシージャスもカスティージャから昇格していた。
それらのタレント勢をまとめたデル・ボスケはシーズン途中からの指揮にもかかわらずUEFAチャンピオンズカップのタイトルを獲得した(リーガは5位国王杯ベスト8)。
1999-2000シーズン終了後には会長選が実施され、新たにフロンティーノ・ペレスが会長に就任した。
ペレス政権の始まりである。
ちなみに1992年にクラブのレジェンド、フアニートが交通事故で帰らぬ人となっている。
サンティアゴ・ベルナベウで試合を観戦後、監督を務めていたチーム元へ戻る途中だったとのこと。
ファンからも愛された背番号7番は常にマドリディスタの心の中にある。
それが現れているのが、試合開始7分になるとサンティアゴ・ベルナベウでは「イジャ、イジャ、イジャ、フアニート・マラビージャ(素晴らしいフアニート)」という掛け声がスタンドから聞こえてくるんだそうだ。
レアルの歴史を作った選手に対して敬意を忘れないあたりがなんとも心温まるストーリーではないだろうか。
2001-2010
フロンティーノ・ペレス政権になって最初の大仕事。
それはバルセロナからルイス・フィーゴを引き抜いたことだろう。
これは会長選の時に公約していたもので見事公約を果たした。
禁断の遺跡も顧みないペレス会長は当時の人気株の選手を次々と獲得。
現在監督を務めるジネディーヌ・ジダンやロナウド、そしてデイビッド・ベッカムなどがその代表的な例だ。
ペレス会長が進めた構造改革はレアル・マドリードの財政面を健全化し、世界で最もリッチなクラブとなったと同時に全てのジャンルにおいて近代化を進めていった。
アルフレッド・ディ・ステファノ・スタジアムをオープンしたと同時にバルデバベスに練習場をオープン、そして、サンティアゴ・ベルナベウの改修も後押しした。
2002年はレアル・マドリードのクラブ100周年というメモリアルな1年だった。
その年のシーズン終盤には通算9度目のヨーロッパチャンピオンを制覇、3度目のインターコンチネンタルカップ制覇、初のUEFAスーパーカップ制覇と記念の年に相応しい成績を残した。
しかし、この年はクラブと確執があったとされた主将のイエロとマケレレ、そして出場機会の少なくなっていたモリエンテスらが退団したことによりレアルは低迷していく。
その後、2004-2005と2005-2006のシーズンで無冠に終わってしまったレアル・マドリードはペレス会長を辞職に追いやった。
2005-2006シーズン終了後にはラモス・カルデロンが会長に就任すると2006-2007シーズンはカペッロ監督が再就任。
このシーズンもマルセロやガゴなどのタレントを獲得し優勝を果たすも、またしても守備的な戦術が批判の対象になり辞任した。
守備的な戦術でも優勝しているからいいじゃないか!
そしてここで大問題が発生する。
ラモス・カルデロン会長に不正投票操作疑惑が出てきたのだ。
この騒ぎを受けてラモス・カルデロンは会長を辞職。
二人の暫定会長を経て、2009年にはフロンティーノ・ペレス会長が再度会長に就任した。
すると、ペレス会長は当時売り出し中だったスター、カカやクリスティアーノ・ロナウド、カリム・ベンゼマやシャビ・アロンソなど名タレントを続々と獲得。
ペレス最高だぜ!お金使ってこうぜ!
って思ったのを覚えている。
当時監督を務めていたペジェグリーニ監督はタレントを使いこなしながら勝ち点を積み上げ、史上最多となる勝ち点96を記録したが2位に終わり優勝はできなかった。
それを受けてペジェグリーニは解任。
2010-2011シーズンからはジョゼ・モウリーニョが監督に就任した。
当時サンティアゴ・ベルナベウでインテルをUEFAチャンピオンズリーグで優勝に導いたその1週間後に就任が決まったことでかなり話題になった。
2011~2020
モウリーニョが就任した最初のシーズンは、レアル・マドリードにとって最高のものとなった。
それがリーガ、国王杯、スーパーカップの3つのタイトルを獲得したことだ。
いずれもライバルバルセロナを破って獲得したものというのも素晴らしい記憶だ。
2011-2012のリーガでは勝点100を積み上げ史上最多記録を達成。
その次のシーズンもクラブ史上最多連勝記録に並ぶ15連勝を記録し、さらにリーグ史上最多の121得点、そして勝点100を記録してリーガ制覇を成し遂げた。
世界のサッカーファンはこのままレアル・マドリードの快進撃が続くと思われた。
2012年の夏にはルカ・モドリッチやエッシェンなどを獲得、2013年冬にはカゼミロを獲得しさらに強化を図るも2012-2013シーズンは獲得したタイトルはスーペルコパのみ。
3年在籍して2年を完璧にチームを率いた指揮官も1シーズンを棒に振るだけで退任してしまう、それがレアル・マドリードだ。
2013-2014シーズンからはカルロ・アンチェロッティ監督が就任すると当時最高移籍金額でガレス・ベイルを獲得。
この頃から「BBC」と呼ばれる最強の3トップの頭文字を取ったトリオで得点を量産し、チームを見事率いたアンチェロッティは4つのタイトル(国王杯、チャンピオンズリーグ、クラブW杯、UEFAスーパーカップ)をもたらした。
2014-2015シーズンはクラブ史上最多連勝記録となる22連勝を成し遂げるなどレアルは無類の強さを誇っていたが、国王杯とチャンピオンズリーグとリーガでタイトルを獲得できなかったことで解任させられた。
こうやって考えると本当に解任の仕方が怖い。
というか解任待望論を出すサポーターの期待値がすごく高いことが伺える。
2015-2016にはラファエル・ベニテスが就任したが、もう全く持って機能しなかった。
国王杯では失格処分を受けて敗退が決まるなど、サポーターからはブーイングの嵐。
結果シーズン途中からクラブのレジェンドで当時Bチームを指揮していたジダンがトップチームの監督に就任した。
途中からではあったが、UEFAチャンピオンズリーグで優勝しウンデシマを達成。
2シーズン目となったジダンレアルは、世界のサッカー界を席巻した。
UEFAスーパーカップ、UEFAチャンピオンズリーグ(デュオデシマ)、ラ・リーガ、FIFAクラブW杯のタイトルを獲得。
タイトル通り、世界一のクラブに上り詰めた。
ジダンの快進撃は止まらず2017-2018シーズンもUEFAスーパーカップ、国王杯、FIFAクラブW杯、そして前人未到のUEFAチャンピオンズリーグ3連覇を成し遂げた。
連続得点記録を世界タイとなる73試合まで伸ばすなど、選手だけでなく監督でもレアルのレジェンドとなったジダンだがシーズン終了後にかっこよく退任した。
そこからレアル・マドリードの指揮をとったのはフアン・ロペテギ。
この年は長年レアルの得点源となっていたクリスティアーノ・ロナウドがユベントスに移籍したことで深刻な得点力不足に悩まされていた。
クラブ史上最長の496分の無得点記録を樹立したほどだ。
チームを改善に導けなかったロペテギはシーズン途中で解任されると、当時カスティージャを率いていたサンティアゴ・ソラーリが就任。
だが、国王杯もチャンピオンズリーグもタイトルを逃し、ジダンが凱旋復帰する。
しかし時すでに遅し、ラ・リーガも3位フィニッシュでタイトルを取ることができなかった。
2019-2020シーズンになるとチェルシーからエデン・アザール、フランクフルトからルカ・ヨヴィッチなどを獲得し得点力不足を解消しようと動いたが、結果はご存知の通り。
全くもって活躍してくれていない。
ふざけやがって。
しかし、バルベルデの台頭により守備面で改善が見られたレアルは、国王杯やチャンピオンズリーグでは敗退したものの、ラ・リーガのタイトルをなんとか獲得することができた。
これは2016-2017以来のタイトル。
数年前のような強さを取り戻したいレアルだったが、2020年の夏の補強はせずレンタルしていた選手を呼び戻すだけにとどめた。
ちなみにレアルが夏に補強をしなかったのは1980年以来のようだ。
しかし、現状レアルは苦しい戦いを強いられており、国王杯では3部のCDアルコヤーノに相手が退場者を出して10人なのにも関わらず敗戦してしまうなどジダン政権史上最も最悪なシーズンとなっていることは間違いない。
サポーターも「ジダン時代の終焉」と揶揄されるほどになっており、2020-2021シーズンで解任されることはほぼ間違いないだろう。
レアル・マドリードがこれまで獲得したタイトル
ここまでレアル・マドリードが辿ってきた歴史を感じてもらえたと思うが、レアル・マドリードが創設されて以来、数々の功績をレジェンドたちは残してくれた。
どれほどのタイトルを獲得しているかは数字で見れば一目瞭然。
今もある大会もあればもうない大会も記載してあるが、優勝したことには変わりはない。
レアル・マドリードがこれまでに獲得したタイトルを確認して、これからも我らがエル・ブランコを一生懸命サポートしていこうではないか。
国内タイトル
- ラ・リーガ34回
- 国王杯(コパ・デル・レイ)19回
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ11回
- コパ・デ・ラ・リーガ1回
国際タイトル
- FIFAクラブW杯4回
- インターコンチネンタルカップ3回
- スモールワールドカップ2回
- UEFAチャンピオンズカップ/UEFAチャンピオンズリーグ13回
- ラテンカップ2回
- UEFAカップ2回
- UEFAスーパーカップ4回
- コパ・イベロアメリカーナ1回
Hala Madrid!!