我らがレアル・マドリードの歴史は100年以上も前の1895年に遡る。
それからクラブは紆余曲折を経て世界中のサッカー選手なら誰もがプレーしたいクラブへと成長した。
これまで様々なトッププレイヤーがプレーしてきたエル・ブランコだが、それら選手たちをまとめ上げるキャプテンの存在はいつどの時代にも必要不可欠だ。
これまでレアル・マドリードのキャプテンは20人以上もの選手たちが務めてきた。
その選手も偉大な選手ばかりだ。
ということで今回は、レアル・マドリードの偉大な歴代キャプテンを書いていく。
レアル・マドリードの歴代キャプテン
キャプテンというのは、プレー面での貢献もさることながらチームを鼓舞する人間性も大事になってくる役割。
そして大きな責任感も伴ってくる。
レアル・マドリードという偉大なクラブでキャプテンを務めるということは、相当なプレッシャーがかかる。
個性派の選手が集うエル・ブランコにおいてチームをまとめるのも容易ではないはずだ。
それでは早速、我らがレアル・マドリードの偉大な歴代キャプテンを一人ずつ紹介していく。
サンティアゴ・ベルナベウ(キャリア晩年〜1927年現役引退)
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言わずと知れたレアル・マドリードの元会長であり、現在のレアル・マドリードの本拠地スタジアムの呼称にもなっているサンティアゴ・ベルナベウ。
輝かしい功績を残した会長時代の印象が強いが、選手時代は200以上のゴールを挙げるなど伝説のフォワードとして名を馳せた。
14歳でレアル・マドリードのジュニアチームに加入したベルナベウのトップチームデビューは少し変わっている。
アルゼンチン代表でウイングを務めていたソテロ・アラングレンが試合に間に合わなかったということで、急遽トップチームに昇格。
そしてそのままデビューしたんだそうだ。
当時はそのアラングレンやミチンバレナ、そしてカステルやソテロなどのトッププレーヤーたちが在籍していたが、強靭なフィジカルと得点能力の高さ、そして献身的なプレーでその地位を不動のものにした。
キャリアの晩年にキャプテンを務めたという情報しかないが、チームをまとめ上げる力は説明不要だろう。
引退後のキャリアを知ってもらえれば容易に想像できる。
1927年に現役を引退したが、引退した後もレアル・マドリードに関わり、コーチや監督などを経て黄金期を作り上げた名会長へ上り詰める。
1978年6月2日に82歳で死去したが、亡くなった翌日のアルゼンチンワールドカップの試合では1分間の黙祷。
そして亡くなった翌年からはトロフェオ・サンティアゴ・ベルナベウという親善トーナメント大会が開催されている。
レアル・マドリード史上でも最も伝説的、かつ重要な人物だ。
フェリックス・ケサダ(?-1935)
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1922年から1936年までレアル・マドリードに在籍したスペイン代表のディフェンダー、フェリックス・ケサダ。
マドリード出身の選手で当時はアイドルとして愛されていた。
レクレアティボ・エスパニョールでのプレーが注目された後に、レアル・マドリードの下部組織に加入。
1922年に当時まだ20歳にも満たなかったケサダはトップチームに選出されると、相手FWに簡単に仕事はさせない献身的かつガッツあるプレーで強固な守備を築いた選手。
高さがあるタイプの選手ではなかったが、駆け引きや的確なポジショニングのセンスがあり、サモラ・シリアコ・キンコセスらと最強のラインを作った。
守備の選手でありながら得点能力にも非凡な才能を見せ、14年間であげたゴールは33ゴール。
PKのスペシャリストとしても信頼され33ゴールのうちのほとんどをPKで記録したんだとか。
1959年7月9日に死去している。
ジャシント・キンコセス(1935-1936/1939-1942)
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1931年から1942年までレアル・マドリードに在籍したスペイン代表のディフェンダー、ジャシント・キンコセス。
エル・ブランコに加入する前は、現在もラ・リーガ1部に所属しているアラベスに所属。
アラベスでは11年でわずか11試合にしか出場する事ができていなかったが、レアル・マドリードにはアラベス時代にコンビを組んでいたシリアコと同時に入団し132試合に出場した偉大なキャプテンだ。
というかアラベスでシリアコと組み成長していたコンビ毎引き抜くあたりがレアルっぽい。
レアル・マドリードに移籍した最初のシーズンでは18試合で15失点と前年に移籍していたリカルド・サモラと当時ナンバーワンと言われたコンビを最終ラインを作成しスペインリーグでの初タイトルを無敗優勝で飾った。
1934年のFIFAワールドカップでは大会最優秀DFに選出されるなど守備の名選手として名を馳せた選手だ。
1936年から1939年まではスペイン国内で内戦が起きてしまったため、リーグは中断。
そのため期間が空いてしまっているが、リーグ再開後も3シーズンキャプテンを務めエル・ブランコに勝者のメンタリティーを植え付けた重要な選手であることは間違いない。
1997年5月10日に死去したが、サッカー史において今もなお鉄壁の守備陣として評価されている。
ホセ・ラモン・サウト(1942-1944)
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キンコセスの現役引退に伴い、キャプテンマークを譲り受けたホセ・ラモン・サウト。
レアル・マドリード史上初めてのメキシコ人選手だったそうだ。
1933年から1944年までの11シーズンをエル・ブランコの選手として過ごし、それ以降はスペインで一生を過ごしたんだとか。
キャプテンを任されるほどの偉大な選手であることは間違いないのだが、これくらいしかどこにも彼の情報が載っていない。
彼の素性は謎だが、2シーズンキャプテンお疲れ様とだけでも言っておこう。
見つけ次第追記しておく。
ファン・アントニオ・イピーニャ(1944-1949)
1939年から1949年まで10年間レアル・マドリードに在籍していたスペイン代表のミッドフィルダー、ファン・アントニオ・イピーニャ。
1939年から加入と書いているが、1939年はスペイン内戦が終わった直後。
内戦の影響で選手が不足し、クラブ再建途中の時期に加入した選手だ。
ちなみにそれまでは、レアル・ソシエダ(1933-1935)とアトレティコ・マドリード(1935-1936)でプレーした経験を持つ。
中盤として様々なポジションでプレーできるユーティリティプレーヤーだったイピーニャ。
チームが必要であれば後ろのポジションも厭わず、ニーズに合わせてポジションを変えていった。
1947年に開催されたサンティアゴ・ベルナベウの柿落としの試合でもキャプテンマークを巻いてプレーし、在籍した10シーズンで公式戦302試合に出場し10得点を記録。
コパ・デル・レイを2回制覇するなど輝かしいキャリアを送った選手だ。
1949年に引退した後はレアル・マドリードの監督も務めており、彼の尽力のおかげでアルフレッド・ディ・ステファノを獲得できたと言われている。
1974年9月7日に死去。
ミゲル・ムニョス(1949-1958)
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1948年から1958年の10シーズンをレアル・マドリードで過ごした偉大なプレイヤー、ミゲル・ムニョス。
エル・ブランコが黄金時代と言われていた時代に選手と監督の両方として活躍したのがムニョスだ。
選手としてのキャリアは、マドリードのクラブからログロニェス、ラシン・サンタンデール、セルタ・デ・ビーゴでプレーし、その後に即戦力としてレアル・マドリードに加入。
今のチャンピオンズリーグの前身となったチャンピオンズカップで初めて優勝カップを掲げた最初のキャプテンがこのムニョスである。
ムニョスが在籍した10年でチャンピオンズカップ3回、リーガ優勝4回、コパ・ラティーナ2回の優勝を経験。
ディ・ステファノやマルキートスなどのメンバーで欧州を席巻した時代のキャピタンだ。
1958年に引退した後はBチーム(プルス・ウルトラ)の監督、そしてトップチームを指揮した。
トップチームでの指揮はレアル・マドリード史上最長となる14年間にも渡り、選手と監督の両方でチャンピオンズカップ優勝を成し遂げた初めての人物。
監督を務めた1973年までの間でリーグ優勝9回、コパ・デル・レイ2回、ヨーロピアンカップ2回。インターコンチネンタルカップ1回と素晴らしい実績を持つ。
その後数々のクラブで指揮を執り、1982年から1988年まではスペイン代表監督として1984年のヨーロッパ選手権準優勝、そして1986年メキシコワールドカップベスト8の実績を残した。
その4年後の1990年7月16日に68歳の若さで死去してしまったものの、その功績はレアル・マドリードサッカー史だけでなくスペインサッカー史にも残る偉大な人物となった。
フアニート・アロンソ(1958-1960)
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1949年から1962年までの13年間をレアル・マドリードで過ごしたゴールキーパー、フアニート・アロンソ。
19歳の頃にセルタの入団テストを受けるも不合格。
そこから2年間ラシン・クラブ・デ・フェロルに在籍し、そこで徐々に評価を上げると21歳の時にレアル・マドリードに入団。
エル・ブランコの選手として297試合に出場し、1954-1955シーズンにはリーガ・エスパニョーラにおける1試合の平均失点が最小のゴールキーパーに贈られるサモラ賞を獲得するなど守護神としてチームを支えた。
ムニョスの後のキャプテンということで少し華々しさには欠けるが、練習熱心な選手として信頼は厚い選手。
キャリア晩年は度重なる怪我に悩ませれ、鎖骨骨折と謎の肺病に泣かされやむなく1963年に現役を引退した。
クラブとしては引退試合を設けるほど愛された選手でキャプテンマークを巻いた期間が2年間と短いものだったもののファンの心に残っている選手だ。
ホセ・マリア・サラガ(1960-1962)
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1949年から1962年までの14シーズンをエル・ブランコの一員として過ごした伝説的ミッドフィルダー、ホセ・マリア・サラガ。
献身的なプレーと守備の貢献度で1956年から1960年にかけてチャンピオンズカップを5連覇した時のレアル・マドリードの中盤に必要不可欠な選手として活躍した選手だ。
18歳の若さでレアル・マドリードに入団後はBチームで練習を積み、1951-1952シーズンに当時監督だったサンティアゴ・ベルナベウからトップチームへ昇格させられた。
様々なスター選手たちが集っていた攻撃陣の後ろで左ウイングとして守備でチームを支え、影の功労者でも知られている。
1961年になると出場機会を失い始め、1962年に現役を引退した。
引退後もスペインサッカーの様々な部分で従事し、ディレクターや監督として活躍。
2012年4月3日に81歳で死去した。
フランシスコ・ヘント(1962-1971)
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1953年から1971年までの18シーズンをレアル・マドリードで過ごした、「カンタブリアの突風」ことフランシスコ・ヘント。
小柄でありながらフィジカルは強く、絶対的なスピードを兼ね備え、得点も取れる選手ということでエル・ブランコファンであれば絶対に知っておきたい名プレーヤーだ。
史上最高の左ウインガーと言われておりチャンピオンズカップは6回も優勝。
ディ・ステファノ、プスカシュ、コパ、リアルなどを擁した攻撃のスター軍団の一人として名を馳せた。
公式戦には600試合に出場し、キャプテンを務めた9シーズンは「イェーイェーマドリード」と呼ばれたスペイン人のみで構成されたチームをまとめ上げた。
あのディ・ステファノからの信頼は厚く、チャンピオンズカップ5連覇の中で最も困難だったと言われる3大会目では「お前しかいない、決めてこい」と進言され見事決勝ゴールを奪ったという話はあまりにも有名だ。
シーズン2桁得点を10シーズン連続で記録すると、1965-1966シーズンはチーム得点王にもなった。
ちなみに通算得点は182ゴールだ。
これらの活躍を受けてスペイン代表にももちろん招集。
当時のスペイン代表最多出場記録だった43試合に出場しW杯にも2度出場した。
1971年に引退した後はカスティージャの監督を務め、それ以降はCDカステリョン、バレンシア、グラナダなどのクラブを指揮。
レアル・マドリードのアンバサダーになると、2016年10月にはディ・ステファノの後任として名誉会長にも就任した。
イグナシオ・ソコ(1971-1974)
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1962年にアマンシオなどと共にレアル・マドリードに入団して以来1974年までの12シーズンを過ごした、イグナシオ・ソコ。
身長184センチ体重81キロという恵まれた体格で空中戦を制し、堅実なプレーが持ち味の選手。
ソコが砦として活躍していた時代の60年代はディ・ステファノやプスカシュなどのいわゆるレジェンド達はベテランの域に入っていたが、前述のヘントらとともにイェーイェーマドリードを牽引し公式戦438試合に出場した。
今でいうカゼミロのような存在と思ってもらえれば分かりやすいかもしれない。
忠誠心を持ち献身的なプレーをしながらチャンスがあれば攻撃にも参加する。
1965-66シーズンのチャンピオンズリーグ優勝を飾るなどチームに大きく貢献し、それこそ替えの効かない存在として君臨していた。
同時期を盛り上げたヘントの現役引退に伴い、ソコがキャプテンを引き継いだ。
1973-74シーズンのラストゲームとなったスペインカップ決勝では宿敵バルサに4-0と快勝。
最後の最後でトロフィーを掲げたことは、長年エル・ブランコの見てきた人にとっては印象に残っている人も多いことだろう。
アマンシオ・アマロ(1974-1976)
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1962年から1976年までの14年間レアル・マドリードに在籍したストライカー、アマンシオ・アマロ。
60年代のイェーイェーマドリードの攻撃を牽引していた選手の一人だ。
アマロは1958年から1962年の4シーズンをデポルティボ・ラ・コルーニャで過ごし、当時2部だったクラブを1部に昇格させた立役者でもある。
デポルティボ・ラ・コルーニャでは92試合に出場し54得点を記録したアマンシオをサンティアゴ・ベルナベウが放っておくわけがないだろう。
1950年代に欧州を席巻したエル・ブランコも世代交代をちょうど迫られていた時期だっただけにクラブを優勝に導くようなフォワードが喉から手が出るほど欲しかった。
ということで1962年に無事レアル・マドリードへの引き抜きに成功すると、アマンシオは右サイドを華麗に走り回り、テクニックとスピードで世界の注目を集めた。
そして加入初年度から見事リーガ優勝を飾ると勢いはそのままにリーグ優勝9回、コパ・デル・レイ3回、チャンピオンズリーグ優勝など数々のタイトルを獲得。
リーグ戦344試合に出場し119ゴール、全て含めると155得点を記録する文字通りの大活躍で、シーズン得点王に贈られるピチーチ賞を2度も獲得した。
年間最優秀選手に贈られるバロンドールこそ獲得はならなかったものの、獲得票数では3位につけるなど、その時代のサッカー界を彩るスターだったことが分かるだろう。
1976年には現役を引退し、ジュニアチームを1年間だけ指導。
その後は他の仕事に移ろうとしたが、1982年に会長のルイス・デ・カルロスに呼び戻され、カスティージャの監督として舞い戻った。
就任2年目は2部でリーガ優勝を飾ると、ブトラゲーニョ、マヌエル・サンチス、マルティン・バスケス、ミチェルといった後のキンタ・デル・ブイトレを成長させたことが評価され1984-1985シーズンにはトップチームを指揮。
結果が出ずにたった7ヶ月で辞任する形とはなってしまったが、アマンシオが育てたキンタ・デル・ブイトレは後のレアル・マドリードにおいて伝説の時代を築き上げる。
監督業はやめたが、レアル・マドリードへの貢献は素晴らしく、スカウトやペレス会長が率いる理事会役員やクラブ創設100周年行事の責任者などクラブのために勢力的に動いた。
レアル・マドリードファンであれば、アマンシオ・アマロは覚えておくべき存在だ。
ピッリ(1976-1980)
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1964年から1980年の16シーズンをレアル・マドリードで過ごしたピッリことホセ・マルティネス・サンチェス。
スペイン飛び地のセウタ出身で、イェーイェーマドリードとして活躍していた選手の一人だ。
リーグ優勝10回、カップ優勝4回、1965-66シーズンのチャンピオンズカップ優勝と数々のタイトルを手にしており、間違いなくレアル・マドリードの黄金期を支えた人物だ。
1975年のコパ・デル・レイ決勝ではなんとアゴを骨折していながら試合に出場したそうだ。
実はこれを書いている僕自身も顎をサッカーで折ったことがあるが、とても折れてるけど試合に出よう!とは絶対にならない。
喋ることが困難なほど痛いからだ。
しかもこの選手は守備的MFから徐々にポジションを下げてDFとしてプレーした。
接触プレーやヘディングなどもたくさんあっただろう。
そんな中でガッツを見せるあたりがキャプテンとしての才能だったのかもしれない。
アマロが引退するのと同時にキャプテンを引き継ぎチームをまとめた。
レアル・マドリードでは417試合に出場し123ゴールを決めるなど得点能力にも優れており、キャリア通算で200ゴール以上を決める選手だった。
W杯にも1966年と1978年にスペイン代表として選出されている。
ミゲル・アンヘル(1980-1986)
1967年から1986年の19シーズンをレアル・マドリードで過ごしたレジェンド守護神ミゲル・アンヘル。
スペインサッカー史上最高のゴールキーパーとしていまだに高い評価を受けている。
ちなみに、20年近くゴールを守り続けたミゲル・アンヘルだが、当初はハンドボールのキーパーだったそうだ。
18歳の時にサッカーに競技を変更し地元のオウレンセでプレーしていたところを、スカウトマンが発見しオファーにまで至ったんだとか。
しかし、当初はレギュラーGKの壁は厚くなかなか試合に出ることができなかったが、1973-1974シーズンにチャンスが巡ってくるとそのチャンスを見事に生かした。
ミゲル・ムニョスからルイス・モロウニー新監督に変わり、ポジショニングの良さやアジリティを生かしたセービングを評価されたそうだ。
リーガ優勝12回、チャンピオンズカップ制覇2回などなど成績を残し、体を精一杯伸ばしてセーブする姿から「エルガト」(猫)というあだ名が付いていた。
1976年にはサモラ賞も獲得したレジェンドキーパーが6年間チームをまとめ上げた。
サンティリャーナ(1986-1988)
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1971年から1988年の17シーズンをレアル・マドリードでプレーしたサンティリャーナ(サンティジャーナ)ことカルロス・アロンソ・ゴンザレス。
ジャンプ力が自慢の選手で相手よりも高くジャンプし強烈なヘディングシュートを叩き込むのがサンティリャーナの十八番だ。
入団する前の1970-1971シーズンを2部のラシン・サンタンデールで過ごすと、2部で見事得点王に輝く。
それに目をつけたレアル・マドリードのスカウトは当時19歳だったサンティリャーナを引き抜き、フアニートと最強のレジェンドコンビとして大活躍。
レアル・マドリード在籍中に9度のラ・リーガタイトル、チャンピオンズカップ2回、コパ・デル・レイ4回、リーグカップ1回という功績を残し、自身も公式戦290ゴール(リーガ86ゴール)という素晴らしすぎる成績を残したことでファンの心にも深く刻まれている選手だ。
ちなみに引退したタイミングでのゴール数は、クラブの偉大なレジェンド、アルフレッド・ディ・ステファノに次ぐ当時歴代2位。
サンティリャーナの活躍はクラブだけに留まらず、スペイン代表でも中心選手として大活躍。
1978年のアルゼンチン、1982年のスペイン大会のワールドカップに出場し、1984年のヨーロッパ選手権では準優勝に貢献するなど、レアル・マドリードの歴史だけでなくスペイン代表の歴史上でもレジェンド的存在の選手だ。
キャプテンを務めた時期は2年間と少ないものの、これだけの選手がチームを牽引していたことをレアル・マドリードにとって大事な時期だったに違いない。
ホセ・アントニオ・カマーチョ(1988-1989)
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1973年から1989年までレアル・マドリードに在籍したカマチョこと、ホセ・アントニオ・カマーチョ。
レアル・マドリードの歴史上でもトップクラスのディフェンダーとして名を馳せた。
6歳でサッカーを始め、アルバセテ・バロンピエで地方リーグ1部に参加すると大活躍。
スカウトマンは目を光らせており、何度かの入団テストを経てカスティージャに入団した。
当時のルイス・モロウニー監督からトップチーム昇格に抜擢されると、それ以降は安定したプレーで守備の要になるとエル・ブランコで577試合以上に出場。
プレーだけでなく献身的な姿勢や勝利を常に求めるところが「偉大な主将」と言われた所以だ。
キャプテン期間は長いわけではないが、キャプテンマークを巻いていない時代もチームを鼓舞し続けた選手で代表でも不動の左サイドバックとして活躍した。
引退後は指導者の道を選択し、これまでエスパニョールやベンフィカなど6クラブ、1998-2002のスペイン代表、2011-2013の中国代表など代表監督の経験歴もある。
レアル・マドリードの監督も務めたがエル・ブランコの監督ではそこまで良い成績は残しておらず首脳陣とぶつかり辞任するなどうまくいっていない。
「世界から来るスター選手より下部組織から上がってきた優秀な若手を選びたい」という辞任の際のインタビューは有名だ。
チェンド(1989-1993)
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1982年から1998年までレアル・マドリードに在籍したチェンドことミゲル・ボルラン・ノゲーラ。
15歳でレアル・マドリードの下部組織に加入したチェンドは引退するまでエル・ブランコのユニフォームに袖を通し続けたワン・クラブ・マンだ。
23歳の時にトップチームデビューを果たすと公式戦497試合に出場した。
何よりもチェンドを語る上で欠かせないのは1987年のチャンピオンズカップ、ナポリ戦だ。
相手のFWにはあのディエゴ・マラドーナがいたが、アルゼンチン代表に全く仕事をさせず、挙げ句の果てにはマラドーナの股を抜くパスを出すなどサッカー界にチェンドという名を知らしめた。
派手なプレーをするというタイプではなくコツコツと努力を積み重ねた献身性に優れた選手だったチェンド。
そんなキャプテンについていきたい!って思うのは普通のことだろう。
チェンドが引退する年にはチャンプオンズカップを制覇し、インタビューではレアル・マドリードに入って何年もプレーしてキャリアを終えるということに喜びを感じるということを述べていた。
引退後もワン・クラブ・マンは継続しておりレアル・マドリードで代表責任者として働いている。
マヌエル・サンチス(1993-2001)
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1983年から2001年までの18年間レアル・マドリードに在籍したマヌエル・サンチス。
「キンタ・デル・ブイトレ」と呼ばれていた当時のレアル・マドリードで中心選手として活躍した選手だ。
12歳にして下部組織に加入し、各年代で周りと違う部分を見せるとカスティージャに昇格。
当時カスティージャを指揮していたアマンシオの指導を受けていたマヌエル・サンチスはのちに「キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」の一人となった。
そしてディ・ステファノ監督のもと、レアル・ムルシア戦でトップチームデビューを果たすとその試合で唯一のゴールを記録し、ブトラゲーニョやウーゴ・サンチェスらとともにリーグ5連覇に貢献。
レアル・マドリードに在籍してる間に公式戦710試合に出場。
現在は塗り替えられてしまっているが、ラウールが塗り替えるまでは最多出場記録を保持していた。
実は彼の父親もレアル・マドリードでプレーした経験もあり、マルディーニ親子に次いで2番目にチャンピオンズカップを制覇した親子としても有名。
サッカーの楽しさを知ったのも父親の影響ということだが、レアル・マドリードの選手として活躍した選手が父親であれば父親と同じチームで活躍したいと思うのは当然のことだろう。
むしろ、父親を超えた存在になれたのは素晴らしい。
2001年に引退したものの、キンタ・デル・ブイトレと呼ばれた選手らの中では一番長く現役を続けた選手だった。
フェルナンド・イエロ(2001-2003)
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1989年から2003年までの14シーズンをレアル・マドリードで過ごしたフェルナンド・イエロ。
銀河系軍団と呼ばれ日本でも話題になっていた時代にエル・ブランコをまとめていたキャプテンだ。
バリャドリードでラ・リーガデビューを飾るとその1ヶ月後にエル・ブランコと対戦。
そしてその2年後にレアル・マドリードに移籍することとなり、マヌエル・サンチスと共にレアル・マドリード鉄壁のセンターバックコンビを組んだ。
そしてマヌエル・サンチスの引退とともにキャプテンマークを引き継ぎ個性派軍団を統率した。
在籍した14年間(601試合)でリーグ優勝5回、UEFAチャンピオンズリーグを3回も制覇しており、歓喜の裏には必ずと言っていいほどイエロの存在があった。
ボランチも務めることができるイエロは得点力のある選手としても有名で、レアル・マドリードでの総得点は102点。
1シーズンで21得点を記録したこともあるほどだ。
「トータルフットボーラー」とも称されたイエロの存在感は欧州でも多大なものだった。
スペイン代表でも89試合出場29ゴールの記録を残しており、レアル・マドリードだけでなくスペイン代表でもレジェンド的な存在となっている。
ラウール・ゴンザレス(2003-2010)
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1992年から2010年までの18シーズンをレアル・マドリードで過ごしたラウール・ゴンザレス。
レアル・マドリードの象徴的存在でイエロからキャプテンを引き継ぎ退団した後も「永遠のキャプテン」とまで言われている伝説的な選手だ。
また、スペインの至宝とも言われ1992年にレアル下部組織に移籍してそのわずか2年後に17歳4ヶ月という若さでトップチームデビュー
持ち前はなんと言っても類まれな得点感覚で、的確なポジショニングとゴールの嗅覚は異常だった。
相手が誰だろうと、とにかく全力で得点の為に走り回り貪欲にゴールを狙う姿は多くのサッカーファンの胸を打ったことだろう。
2015年まではクラブ最多得点となる323ゴールという記録を持っており、在籍16シーズンの741試合に出場し16個のタイトルをもたらした。
またこの741試合出場もレアル・マドリードでの最多出場記録を誇っている。
またスペイン代表でも102試合に出場しており44得点を記録。
レアル・マドリードの象徴的存在でありながら、スペイン代表の象徴的存在もあった選手だ。
現在はカスティージャの監督を務めており、将来トップチームで活躍する若手の育成に携わっている。
イケル・カシージャス(2010-2015)
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1999年から2015年までの16シーズンをレアル・マドリードで過ごしたイケル・カシージャス。
公式戦通算725試合に出場したレジェンドで、レアル・マドリード史上でも最高のゴールキーパーと言われているレジェンドだ。
スペイン代表でも最多出場を誇っているカシージャスは、レアル・マドリードだけでなくスペイン代表でも存在感を発揮。
銀河系軍団と呼ばれたタレント豊富なメンバーを揃えていた2000年代だったが、攻撃に偏重していたチームの中で、最後尾にいるだけで安心感を与えてくれる存在。
的確なコーチングと反射神経でチームのピンチを幾度となく救ってくれたシーンはファンの心にも刻まれていることだろう。
エル・ブランコ在籍時代にタイトルを19個も獲得したカシージャス。
当時の攻撃陣も流石だったが、鉄壁の守護神がかなり多くの勝利を呼び込んだことは言うまでもない。
2015年にクラブとの確執が噂されポルトに移籍することになったが、FIFAが選ぶベストイレブンに5回、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)の世界最優秀選手を5回も受賞していることからもサッカー界でも偉大な存在であった事がわかる。
個人的には退団会見にクラブ関係者が一人も現れなかったのはかなり印象深い。
心臓発作で病院に搬送されて以来ピッチに立つことはなく引退したが、現在はレアル・マドリードのフロントに入閣し裏で我らがレアル・マドリードを支えてくれている。
セルヒオ・ラモス(2015-)
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2005年からレアル・マドリードに在籍しており、現在のレアル・マドリードのキャプテン、セルヒオ・ラモス。
セビージャの下部組織に加入し、セビージャでラ・リーガデビューを果たすと、18試合ながら41試合に出場するなど若くから頭角を表す。
そしてスペイン人の10代選手としては最高額の2700万ユーロでエルブランコのユニフォームに袖を通すことになった。
ラモスも目標の選手として掲げていたフェルナンド・イエロの背番号4を引き継いだ。
ラモスの持ち味はなんといってもスピードと危機察知能力、そしてチームを鼓舞する統率力だ。
守備の要として今のレアル・マドリードを支えている傍ら、セットプレーでは度々チームを救うゴールを決めるなど、攻撃の面でも存在感を発揮している選手。
「ノベンタ・イ・ラモス」(ラモスの時間)という言葉がファンの間であるくらいだ。
ちなみに、純粋なディフェンスの選手で100ゴール以上を決めたのはこのラモスだけ。
我々ファンは何回ラモスのゴールに歓喜したか想像すれば、この選手がいかにレジェンド級の活躍をしたかが容易に理解できるだろう。
現在は契約満了に伴い移籍問題が浮上している。
ラモスもクラブ側もなかなか折り合いがつかない状況が続いているが、執筆時点では契約延長の方向でようやく交渉が進められているようだ。
今のレアル・マドリードにとってラモスが急に他チームへ移籍してしまうのはかなり痛いだけに良い方向で交渉がまとまってくれることを願いたい。
「世界最高のアタッカーはクリロナかメッシか」という議論がなされるように「世界最高のディフェンダーは誰か?」という議論で必ず名前が上がる選手。 それが我らがレアルマドリードが誇る絶対的キャプテン、セルヒオ・ラモスだ。 正直、彼なし[…]